国立市は谷保にある「やまもり食堂」で「聖者たちの食卓」という映画の上映会イベントに参加してきました。
あまり映画に詳しくない私がなぜこのイベントに参加したかというと、映画の後にカレーが振る舞われるという事を聞きつけたからです。
インドの映画を観た後にカレーが食べられるなんて最高じゃないか!そんな単純な理由で、自転車でぶらりと谷保まで行ってきました。
「聖者たちの食卓」はインドにある黄金寺院が舞台。
宗教・性別・階級に関係なく、そこに訪れた人々には無料で食事が施されます。その数なんと1日10万食。
食事の準備や片付けは全てボランティアで行われているそう。そんな大規模な日常の風景が、ナレーションも会話もなく淡々と映されていきます。
言葉による説明がほとんど無いので飽きそうなものですが、なぜかこの映画は目が離せない。ジャガイモをポンポンとカゴに投げ入れる男達の姿から始まり、だるそうに生地を丸める女達、無言でニンニクの皮をむくお爺さん、スケートするみたいに滑りながら床掃除をする若者、洗い終わった金皿が無造作に次々と投げ込まれてカンカン言わせながら飛び散る皿を必死でかき集めるちょっとかわいそうな男の人。笑
食べさせることは愛を与えること
私の親は喫茶店を営んでいました。
子供の頃に見た、親が自慢の珈琲を淹れ、ナポリタンやフレンチトーストを作り、お客さんがそれをおいしそうに食べている様子は「聖者たちの食卓」の風景と重なります。それは、食べることは生きること、食べ物を作り与えることは生を与えること、すなわち愛を与えることだという、はっきりとは見えないけどじんわりと浸みわたる実感です。
(上映会後、映画と同じように床に座ってカレーを食べる参加者の皆さん)
これはあくまで個人的感想ですが、黄金寺院で人々が食べている様子はそれほどおいしそうには見えません。映画全体を通して映される人々の顔も笑顔は少ないです。
しかし雑多に行き交う人々がある一つの目的「食」において動いているという大きなうねりと、その大きなうねりがここでは毎日繰り返されているという現実感が、時にカメラに気付いて真っ直ぐこちらを見る人々の深い眼差しにありありと表れていました。
一つ前の記事でお風呂と日本人の信仰心の関係について書きました。
日本の風呂はインドの沐浴と違い、階級をはじめとした境界がゆるやかであり、誰もが背中を流し合う場であるという話です。
しかしインドでもこの様な階級を問わない場所があることを今回知りました。
お風呂でも黄金寺院でも、人間の本能に根ざした欲求に率直に従う人々の大きなうねりを俯瞰で見ると、それは信仰になるのではないか。
あるいは祭になるのではないか。
そう思いました。
(やまもりカフェの台所。カレーがずらり)
人間の3大欲求は寝たい・食べたい・したい。
この3つを半ば無意識に人は求めていきます。
その他にも
走りたい、
学びたい、
清めたい、
やり直したい・・・・
むくむくと湧き上がる欲求が人にはあって、それを他人が充す行為を愛と言い、愛が発生している場を生きた場というのだろう、と思いました。
このイベントの主催者の方に差し上げる仏を彫り終わったので、帰り際にお渡ししました。
リクエストは「踊るような仏様」。
ちょうど私と主催者様が知り合ったきっかけになった旧高田邸で伐られた枝が、2本絡まり合っていてなまめかしかったのでそのまま使わせて貰いました。小さな節目はそのまま残して白毫に。
見る人の想像力で腕をゆるりと伸ばしているように見えればうれしいです。