猫はどこを見ているんだろう?
微動だにせず、何も無い白い壁や襖の角を目を見開いてジッと凝視していることがある。
「どこを見ているの?」
と尋ねても、大抵無視される。
「猫の視線の先は霊界に繋がっているんだよ」
なんて言う人もいる。
冗談の一種だけど、本当にそうかもしれないと思わせるような形相を猫はしている。
普段歩いている道はなんの何の変哲もない。
でも初めてそこを訪れた人が見たその道は新鮮な発見に満ちている。
でも初めてそこを訪れた人が見たその道は新鮮な発見に満ちている。
特にそこが観光地であったり特別な意味を持つ場所・特別な時間であると、人は些細な片鱗から何かを受容しようと目を凝らす。
「旅」はそんな特別な時間の絶え間ない連続運動だ。
そこに住み暮している人にとっては「そんなもののどこが珍しいのか」と思うような変哲のない事が、旅する者の目から見るととても新奇なものに映る。
逆を言えば、同じ場所に何年暮らしていようと町のそこかしこに新奇さが見出されるのであればその人は安住しながらも「旅する人」であると言えるのかもしれない。
「旅する人」の目は僅かな差異も見逃すまいと、意識を外へ外へと開放する。
剥がれかけた壁のペンキに、
道を歩く老婆に刻まれた皺の深さに、
曲がりくねった枝葉の先っぽが指し示す青空に、
自分だけが窺い知ることのできる意味、或いは啓示、に似た何かを見出す。
対象物を見つめて「旅」の世界に入っていると、傍からは放心したような状態に見られる事がある。
自分でも瞳孔が開いているのがわかる。
隣りの人に「どこを見ているの?」と聞かれる。
そこで、猫の見ていたものはこれだったのかもしれないと気付く。
猫はきっと旅をしている。
旅をしている私もきっと猫の目になっている。
あっちをうろうろ、こっちをうろうろ、
慌ただしい日常の側から見たらまったく呑気で、時に鬱陶しくさえ思える所作は
猫の目と同じように奇怪かもしれない。
でも、猫の目を見て「この世はあの世と繋がっているのかもしれない」と想像するように
猫の目を心の内にそなえている人間も、日常と非日常はいつだって地続きであることに思い至れば
毎日の中にも常に新しいしらせがあることをきっと知るんだろう。